その1 その2

「ふう……、よかった。水道が生きていて」

僕は工場の隅に水道の蛇口を見つけ、全身についた石灰を洗い流していた。服についている分は、まあ仕方がないだろう。帰りの電車で目立つだろうけど。

結城さんは腕を組んで、そんな僕を汚いものを見るような軽蔑の視線でじっと見ている。

「どうして、ここにいるの?」

まっすぐに追及され、逃げ場がなくなった僕が観念し、今日の出来事をすべて正直に話し始めると、結城さんはみるみる僕を見下すような顔になっていった。それから彼女はずっとこの視線なのだ……。

「あのー……、後をつけてきたことについては本当に反省しているので、そろそろその視線やめてもらっていいですかね。背中が痛いです……」

「うるさい。ストーカー」

「、す、ストーカー!?」

「何か弁解の余地でも」

喫茶店で結城さんを見つけてからの、僕の心理と行動を思い返してみる。

「ありません」

彼女は小さく溜息をついた。

「……まあ、もういいわ。汚れも落ちたでしょ?」

「……ああ。何とか。これなら電車に乗れそうだ。」

頭が濡れたままだが、この日差しならそのうち乾くだろう。

「帰りの電車で、痴漢をしてはいけないわ」

「何を勘違いしてるんだよ!!僕は変態の総合商社じゃないんだよ!!」

「そうだったわね。じゃ、さよなら」

結城さんがひらひらと手を振る。

「うん、さよなら」

僕は工場の入り口まで歩いていき、そこでくるっと一回転して引き返し、叫んだ。

「まだ何ひとつ聞いていない!!!まだ何ひとつ聞いていない!!!」

思わず二回言ってしまった。

「聞いていないって……?」

彼女は涼しい顔で小首をかしげている。

「たくさんあるだろッ!!!フォージアンって何だとか!あの怪人たちは何物なんだとか!どうして結城さんがあいつらと戦っていたのとか!!」

「……どうして、私がそれを相原君に教えなければいけないの――?」

あなたには関係のないことでしょう――?と彼女は言った。

「それは……その……僕だって巻き込まれているし」

「そうね。だから、これ以上巻き込まれないようにしなければいけないわ」

「ぐッ……、い、いや!ここまで巻き込まれてしまった以上、僕にだって知る権利がある!!」

「最初の日はともかく、今日巻き込まれたのは相原君の自業自得でしょう……?」

「…………まあ、そうだけど」

ストーカーに反論の余地はない。結城さんはまた溜息をつく。

「……これまで何回自分が死にそうな目にあったか、分かってる?」

「それぐらい分かっているよ。2回……いや、工場に入ってきた、囲まれたときを別にすれば3回だ」

僕は指を折って自身満々に彼女に見せる。

「あの、別に具体的な数を聞いたつもりはないのだけれど……」

「ちなみに北海道時代をいれたら4回だ。小さい頃、スキーで転んで大怪我をした」

「その話は本当に聞いたつもりはないのだけれど……」

結城さんは少し逡巡したのち、天井を指差す。

「あれを見て」

さっき彼女が工場が入ってきたときに、見上げていたものだ。

――軽自動車サイズの茶褐色の細長い物体が、工場の天井にベッタリと張り付いている。その表面は、硬い殻のようなもので覆われていた。

 
「……蛹?」

僕は彼女に尋ねた。

「そう。」

結城さんは頷いて言った。

「あの芋虫のものよ。あなたのせいで逃がしてしまった――」

そして彼女は僕の顔をじっと見つめた。

「あのとき、私はあなたを守ることを優先して、芋虫を逃がしてしまった。2か月間、私はそれを探していたの。幸運にも羽化する前に発見できたからよかったけど……想像してみて。もしこの蟲が、私が発見する前にこの首都圏のどこかで羽化していたら、もっとひどい被害が出ていたかもしれないのよ?」

「……」

「何もできない足手まといに興味本位で付いてこられると、私は迷惑なの。一人であれば発揮できたはずの本来の力を発揮できないし、そのせいで敵を撃ち漏らすこともあるかもしれない。もしそうなってしまって、本当なら出さなくてもよかったはずの死者が出てしまったら――。相原君は責任を取れるの?」

「……そうだね。ごめん。」

僕は頭を掻いて言った。

「もう関わらない。これを最後にするよ」

結城さんは、ほっとしたように息を吐いた。でも気のせいか、そこに若干の寂しさも秘めていたような……。

 

――パリン

 

パリン?何の音だ……?

「……ッ!!」

結城さんが驚愕の表情で蛹を見上げる。

ビシビシビシ……

蛹に亀裂が入り、それが広がっていく。

「そんな……!計算ではまだ羽化するはずがなかったのに!」

そのとき、僕は気づいた。

「まさか……ここ数日の陽気で!?」

羽化するまでの時間が早まったのだ――。

 

グシャァッと音がして殻が裂け、その怪物は飛び出した。黒い翅に黄土色のグロテスクな文様がついた、巨大な蝶。その怪物が完全に姿を現したのと同時に、僕の脇からフォージアンも跳躍する。ホルスターから警棒を抜出し、ソードモードに変形させて斬りつけた。――だが、その蝶は素早い動きで身をかわし工場の入り口から外へと飛び出した。

『逃がさないッ』

追いかけるフォージアンの右腕からワイヤーが飛び出し、巨蝶の身体に突き刺さる。キィィィィッと悲鳴のような音をもらしながら、怪物はワイヤーによって引っ張られ、工場の敷地内に留め置かれた。

 やや日が陰りつつある工場の前で、フォージアンとその怪物は対峙していた。僕はといえば、小さな窓からその戦いを遠目に見ているしかない。従って、ここからの描写は厳密にいえば僕がすべて目撃したことではない。のちに僕の記憶とフォージアンの戦闘記録とを照らし合わせて再構成したものである。

 

 ワイヤーから逃げ出そうとする巨蝶を、フォージアンはハンマー投げの要領で振り回し、工場の壁に叩きつけた。

ドスン!!

コンクリートの壁がボロボロ崩れ、バランスを崩した蝶は地面へと落下する。

 フォージアンは相手の動きが鈍ったのを見ると、巨蝶を右腕のワイヤーでつなぎとめたまま、警棒を左手に持ちかえ、ガン・モードに変化させて放つ。光線弾が何発もはなたれ、巨蝶に向かっていく。だが――その怪物は弾が命中する直前、バサリと翅を閉じたのだ。光線弾は翅に当たる。そしてそれは、鏡のように反射して、そのまま射手へとはね返された。

『……っ!?』

不意をつかれた深紅の戦士は回避できない。光弾はフォージアンの左腕に命中し、爆発。その衝撃で銃が弾き落とされ、アスファルトの地面に転がった。

『……くっ、油断したわ』

左腕の装甲に、罅が入っている。ふらふらとよろめいて後ずさり深紅の戦士を見て、巨蝶は再び翅を広げ、そのまま羽ばたき始める。

バサッ!バサッ!

この隙にワイヤーを引き千切り、逃げ出そうというのか――フォージアンは右腕に力を込めた。

 だが、巨蝶の目的はそれではなかった。それがバサッと一回羽ばたくごとに、その渦を巻くグロテスクな文様が剥げ落ちていき、黄土色の粉となって、フォージアンへと向かっていく。

「……鱗粉!?」

ワイヤーを切り落とされまいと足に力を込めていたフォージアンは、その鱗粉を避けられなかった。たちまち彼女の紅いボディが、黄土色に塗りたくられていく。

『……ッ、これは!?』

マスクも、胸部のモニターも、ショルダーアーマーも、上半身がすっかり黄土色に染まった瞬間――

――その鱗粉が、爆ぜた。

バシュッ!!パンッ!!パンッ!!パンッ!!

『……あぁぁぁッ!!!!』

フォージアンの上半身全体で、断続的に爆発が起こる。ひとつひとつの爆発はスーツそのものを破壊するまでには至らないものの、火花を散らし、焦げ目をつくり、着実にスーツにダメージを与えていく。

パンッ!!パンッ!!

丸みを帯びたメタリックなスーツからバクチクのような音が上がるたび、赤色の女戦士はまるで操り人形がダンスを踊らされているかのように、力なく前後左右に身体をよろめかせている。

パンッ!!パンッ!!パンッ!!

爆発は上半身全体を覆う鱗粉すべてが爆ぜるまで続き、フォージアンの姿が白煙の中に消えていく……。

『ウ……ァ……』

やがて炸裂音がやんで白煙が晴れていと、赤色の強化スーツに黒い焦げ目の斑点がついた女戦士がゆらゆらと揺れていた。胸のモニターが点滅していて、パチパチと小さな火花があがっている。そしてそのままゆっくりと膝をつく。右腕のワイヤーは、爆発の衝撃でちぎれてしまっていた。

 全ての鱗粉を代償に自由になった巨蝶は、すぐに広い空へと飛び去って行くのではなかった。手負いになった自らの敵に引導を渡さんと、膝をついた赤い戦士めがけて急降下する。

ズドーーーーン!!

フォージアンはその巨大な蝶に押し倒される。それは六本の足を開き、赤いメタリックなボディをベア・ハッグの要領でがっしりと掴み、締め付け、固定する。

『……くっ……ああああッ!!』

怪物が締め付ける力を強めるたびに、キリキリとアーマーが軋む音がする。

 

「……フォージアンッ!!」

唇をキュッと噛んだ。僕の命が危機に陥るたびに、何度も颯爽と助けてくれたあの紅い女戦士が今、まさに凶悪な怪物によって蹂躙されようとしているのに――僕には何もできない。見ていることしかできない。そのことがただとてつもなく悔しかった。

 

 勝ち誇る巨蝶は、その丸まっていた長い口――普通の蝶ならば、花の蜜を吸うためにあるそれだ――をピンとまっすぐに伸ばし、槍のように硬質化させた。そしてフォージアンの左腕、自らの銃の攻撃によって傷つき、裂け目がついたその部分に突きさした。

『アアアアァァァッッッ』

拘束されたフォージアンの背中がぴんと弓なりにしなり、普段の結城さんからはまるで考えられない、ひときわ大きな絶叫が漏れた。

黒色の巨蝶はその内部を完全に粉々にせんとするかのように、ざくざくとくちばしを抜き差しし続ける。

ブチッ……!グシャッグシャッ……!

配線が千切れ、機械が破壊される音がして、小さな部品がポロポロ飛んでいく。さらに巨蝶は、スーツに流れるエネルギーの流れをストローのように吸い上げていった。貫かれる激痛とエネルギーを吸収される苦痛。フォージアンは顎を仰け反らせながら悲鳴を上げ続ける。バイザーの奥に光る二つの瞳は点滅を繰り返している。胸のモニターに緊急事態を告げる表示が映り、警告音を鳴らす。

『くっ……このままではやられてしまう』

フォージアンは何とかこの窮地を逃れようと、最後の力を振り絞ってスーツの出力を上げた。身体全体が赤色に輝き、高熱を放つ。

巨蝶はその高熱にひるんだのか、六本足の拘束を解く。フォージアンは自由になった右手を伸ばして地面に転がっていた自分自身の銃を掴み、巨蝶に向かって放つ。しかし、スーツのダメージと消耗が大きすぎて照準はまるで合っておらず、その光弾は目標を大きく外してしまい、敷地内にあった消火栓に命中し、破裂させた。噴水のように吹き上がる水。

力を使い果たしたフォージアンはもはや動けなかった。水に濡れたアスファルトの地面にドサリと仰向けに倒れる。胸のモニターにはもう何も映っておらず、青色のメインコンピューターも、バイザーの奥のマルチアイも、弱々しく点滅している。黒い翅と黄土色の斑点の巨蝶は、そんな仇敵の姿を見てバサバサと宙へと飛び上がり、工場の屋根を越えて見えなくなった。

あとには、まるで敗北の涙を象徴するかのように消火栓の水でずぶ濡れになり、身体のあちこちに黒い焦げ目がついた深紅の戦士が残された――。

 

左腕を抑え、ずぶ濡れになった結城さんが、今にも倒れそうな足取りで工場の中へと戻ってきた。

「……結城さん!!」

僕は彼女に駆け寄って、工場の壁を背に、静かに横たえる。いつもクールな顔が苦痛に歪んでおり、息遣いも荒かった。右手は左腕から流れる血液で真赤にそまっている。

「まず止血を……」

結城さんが遮る。

「……触らないで。自分でやるから」

自分の服を破いて包帯をつくり、傷口に巻いていく。

「……スーツは?」

「……再起動中。緊急修復プログラムを走らせたから、多分、通常時の7割までには回復できるはず」

7割――。初手でミスが続いたとはいえ、10割の力でここまでやられたのだ。

「……あの蝶はいなくなったみたいだ。結城さん、今のうちに逃げよう。」

「……逃げる?」

結城さんがちらりとこちらを見て、首をかしげる。

「逃げる……どうして?」

「だって、早く病院に行かないと。あの怪物のことは……」

警察に任せて、と言おうとして、警察の力ではどうしようもないことに気付いた。では自衛隊?いや、大都市のど真ん中で使えるような通常兵器のたぐいでは、奴はびくともしないだろう。

「そ、そうだ。君の仲間に任せて……」

これだけのテクノロジーを、二十歳前の女の子一人で扱えるわけがない。すなわち、彼女には絶対に他の仲間がいるはずだ、と僕は思った。

「……仲間?」

彼女は目を伏せた。

「……仲間なんていないわ」

「え……」

「……フォージアンは私一人。だから、あの蝶を倒せるのは私だけ」

「そんな――」

「……それに、あの巨蝶はいなくなってはいない。奴らの本能か考えて、手負いの獲物にとどめを刺さずにどこかにいくはずがない。見て」

傷ついた左手でスマートフォンを取り出し、地面に置く。地図のこの工場らしき場所の上に、光の点が回転している。

「……ここの上空で見張っているのよ。逃げられるはずがないわ」

「じゃあ……」

「相原君」

結城さんが僕の目をじっと見て、弱々しい声で告げた。

「あの蝶の標的は私。だから……相原君一人だけなら脱出できるはず。私が囮になるから、あなたは逃げて」

その台詞を聞くやいなや、僕は頭にかぁーっと血が上ってくるのを感じた。

「そ、そんなこと出来るわけがないじゃないか!!!」

僕は叫んでいた。

「どうして――?」

「だって、確かに君は僕よりもずっと強いかもしれないけれど、今は傷ついていて、女の子で、僕は男で――」

「……随分古風な考え方をするのね。流石北海道の田舎者だわ」

「……ええい!!性別はどうでもいいッ!!ついでに出身地もどこでもいいッ!!とにかく、傷ついた女の子一人残して、自分だけ逃げるなんてできっこないだろ!!」

「……相原君、さっき言ったでしょう。興味本位で何も出来ない人に付きまとわれても迷惑なだけだって」

「……それでも!それでもなんだよッ!!それに、この気持ちは興味本位なんかじゃない!」

結城さんは溜息をついた。

「もしかして、あなたはこう言い出すのかもしれないわ。それが人として当然のことじゃないかって。」

「……」

「だけど、人の倫理は人にだけ通用すること。そうじゃない?」

「……何がいいたいんだよ。」

「相原君。さっき、傷ついた女の子って言ったわね。」

「……うん?」

「見て――」

彼女が、傷口に巻いていた包帯を外す。当然そこには、人としてあるべき赤い肉と白い骨があるのだと、僕は思っていた。しかし僕が見たのは――白い人工筋肉と、赤や青で彩られた何本かのコード、そして、灰色で無機質の、様々な小さな機械の部品。血液だと思っていたのは、どこかの切れたコードから流れる潤滑油のようなものだった。

「――……」

「分かったでしょう?私は傷ついた女の子なんかじゃない。壊れかけた兵器なの。フォージアンは、一旦放たれたら敵を殺すまで飛ぶのを止められない。でも――人間がそれに付き合う必要はないでしょ?」

僕を諭すようにそう言って、彼女は自嘲気味の笑顔を見せる。

 僕は宙を仰いだ。僕の頭の中に様々な時間、様々な場面の結城さんが駆け巡っていく。

 教室でつまらなそうに外を見つめていた結城さん、一人で昼食を食べていた結城さん、誰に話しかけられても無愛想な返事しかしなかった結城さん、氷のような瞳でギロリと睨む結城さん、フォージアンとして僕を助けてくれた結城さん、そして今、僕の目の前で傷つき、ずぶ濡れになって倒れている結城さん――そのすべての結城さんが、一本の太い線となって、つながっていく。

 

そうやってすべてを一人で背負い込んで、悲劇のヒロインを気取って……本当に君はそれでいいの?――

 

何も知らないままであったなら、そのまま知らないふりをして過ごすこともできた。しかし、あんなにも悲しい瞳で見つめられてしまったら……。考えなければいけない。今、僕たちを取り巻いている状況を。自分自身が何をなすべきかを。

僕はもう一度、これまでのことを思い返してみた。この工場に来て、巨蝶が現れ、フォージアンが敗北するまでを。そして――選択した。

 

「……分かった」

僕は彼女に言った。

「だったら、なおさら結城さんを一人にしておくわけにはいかないよ」

「相原君……あのね」

聞き分けのない子を諭すように僕を見る。でも、それを遮るように僕は続けた。

「確かに、放たれた矢は人間には止められない。でも――人間は矢の進路を決めることはできる。そしてそれは、人間にしかできないことだ」

「相原……君?」

「それに、僕は何もできないわけじゃない。確かに、僕には君と背中を合わせて戦う力はない。だけど――考えることはできる。」

僕は自分の頭を指差しながら言った。

「思いついたんだ。あの蝶を倒す方法を」
 
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