キリスト教思想の中に、「摂理」と「奇跡」という考え方があります。キリスト教では、この世界をつくったのは神様です。この世界にあるありとあらゆるものには、神様の意志が働いています。

 とはいえ、世界をつくった神様は、世界を運営していくにあたって、いちいち世界のそれぞれのモノに対して命令をすることはありません。もし神様がいちいち命令を下していたとすれば、私たち人間が行っているあらゆる事柄は、主観的には自分自身の意志で行っているように見えても、実は神様に操られていた、ということになります。この考えによれば、人間に自由意志は無いことになります。教会の思想がいまだ体系化してはいなかった古代には、このような考え方をする神父もいたようです。

 しかし、神様が世界のあらゆる事柄に対して、たとえば一つの原子の動きに対してまでも、微細に命令し続けている、という考え方を現代のキリスト教会はとっていません。神様は世界をつくり、世界の根本的な運用の法則(たとえば物理法則や生命の法則)を定めはしましたが、それ以外は基本的に世界に干渉しようとしません(ちょうど会社の社長が、方針を決めた後は社員の行動にいちいち命令をしないのと同じですね)。この考え方を採用することによって、アウグスティヌスという神父は人間に自由意志があるということを証明しようとしました。

 ところが、神様は基本的に世界に干渉しないといっても、何か思うところがあれば、その原則をやぶって干渉することがあります。これが「奇跡」です。「奇跡」はしばしば唐突におこり、その意図は人間には理解できないことも多々あります。そもそも神の意図は人間には理解できないからです。一方、神様が世界を放置しているときに世界に働いている神様がつくった法則のことを「摂理」と呼びます。私は、ヒロピンについても「摂理」としてのヒロピンと「奇跡」としてのヒロピンがあると思うのです。

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