キリスト教思想の中に、「摂理」と「奇跡」という考え方があります。キリスト教では、この世界をつくったのは神様です。この世界にあるありとあらゆるものには、神様の意志が働いています。

 とはいえ、世界をつくった神様は、世界を運営していくにあたって、いちいち世界のそれぞれのモノに対して命令をすることはありません。もし神様がいちいち命令を下していたとすれば、私たち人間が行っているあらゆる事柄は、主観的には自分自身の意志で行っているように見えても、実は神様に操られていた、ということになります。この考えによれば、人間に自由意志は無いことになります。教会の思想がいまだ体系化してはいなかった古代には、このような考え方をする神父もいたようです。

 しかし、神様が世界のあらゆる事柄に対して、たとえば一つの原子の動きに対してまでも、微細に命令し続けている、という考え方を現代のキリスト教会はとっていません。神様は世界をつくり、世界の根本的な運用の法則(たとえば物理法則や生命の法則)を定めはしましたが、それ以外は基本的に世界に干渉しようとしません(ちょうど会社の社長が、方針を決めた後は社員の行動にいちいち命令をしないのと同じですね)。この考え方を採用することによって、アウグスティヌスという神父は人間に自由意志があるということを証明しようとしました。

 ところが、神様は基本的に世界に干渉しないといっても、何か思うところがあれば、その原則をやぶって干渉することがあります。これが「奇跡」です。「奇跡」はしばしば唐突におこり、その意図は人間には理解できないことも多々あります。そもそも神の意図は人間には理解できないからです。一方、神様が世界を放置しているときに世界に働いている神様がつくった法則のことを「摂理」と呼びます。私は、ヒロピンについても「摂理」としてのヒロピンと「奇跡」としてのヒロピンがあると思うのです。

 戦隊やプリキュアなど、一年を通して進行する変身ヒーロー(ヒロイン)物を考えてみましょう。これらの物語は、基本的には一話完結です。何か事件が起こって、ヒーロー(ヒロイン)が登場し、多少ピンチになったとしても敵を倒します。その一定のリズムは原則的に崩れることはありません。

 ところが、何かのはずみで、まったく思いもかけずに、我々の目の前にヒロピンが訪れることがあります。たとえばマンネリ化した中盤、急にヒロピン回が差し挟まれたり、別にそういう回でもないのになぜかヒロインが凄いピンチになったりします。これは「奇跡」としてのヒロピンです。そのピンチは一時的なもので、しばらくのちにはまた物語の「摂理」に復帰するのですが、いわゆる「名作」とされる、語り継がれるようなヒロピンはこの形式にのっとることが多いでしょう。

 一方、近年の1クール完結型アニメなどでは、一定のリズムが確立する前に物語が終わります。ヒーローもヒロインも、常に強い敵と戦うことを強いられ、物語を展開することを強いられます。こうした物語では、必然的にヒロピンがビルトインされざるを得ません。味方側が一度もやられないバトル物は詰りませんから当然です。これは、世界の法則の中にヒロピンが内在化しているという点で、ストーリーテーリングの技術としてヒロピンが説明できます。これを「摂理」としてのヒロピンと呼ぶことができるでしょう。

「奇跡」としてのヒロピンのカタルシスは、繰り返しになりますが、それが唐突に起こることによって生じます。それまでヒロインたちが、一定のリズムで、華麗に活躍するシーンを見てきたのが、いきなり打ち切られ、ヒロピンが始まるのです。この場合、それまで見てきた活躍の総量に比例して、カタルシスを得られます。

他方、「摂理」としてのヒロピンは活躍とピンチの高低差を利用することは難しくなっています。この場合、ヒロピンを高めるのは、物語自体を悲愴な方向に持っていくことしかありません。これは逆に「奇跡」としてのヒロピンでは出来ないことです。たとえばメインキャラの死亡は「摂理」としてのヒロピンであればありえますが、「奇跡」としてのヒロピンにおいてはバイオマンなどの例外を除いてほぼありません。「奇跡」としてのヒロピンは、その後の原状復帰が前提にされているからです。

 

この2つのヒロピンのタイプはどちらが正解というものではありません。好みも人によって異なるでしょう。しかし、創作ということになると、それぞれの特性、長所と弱点を理解しておいたほうが、より効果的な表現が出来るようになるのではないでしょうか。